英国・湖水地方『ピーター・ラビット』ゆかりの地、「ヒル・トップ」(前編)

英国の1年を、時候に沿ってお届けする【英国365日】。

5月は、英国の湖水地方にある『ピーター・ラビット』ゆかりの地、「ヒル・トップ」について。

英国バッキンガムシャー州在住で英国政府公認ブルーバッチ観光ガイドの木島・タイヴァース・由美子さんにお話いただきます。

それでは、木島さんの#英国ライフ・コラムをお楽しみください!


ユネスコの世界遺産に登録されている湖水地方は、イングランドの中でも特に風光明媚な場所として知られており、国内外からの観光客が後を絶ちません。

「ボウネス・オン・ウィンダミア」や「アンブルサイド」などの湖水地方の町は、夏のハイシーズンになると賑やかですが、これらの宿泊施設の多い町から少し離れると、夏場でも静かな自然を楽しめる場所がたくさんあります。

私はそういう場所が好きで、湖水地方のさまざまなルートでウォーキングをしました。

日本からのお客様と一緒の時は、英国の代表的な詩人、ウィリアム・ワーズワースが住んでいた家「ライダル・マウント」から、グラスミア湖、ライダル・ウォーター湖沿いを経て、名物のジンジャーブレッドが有名なグラスミア村へとゆっくり歩くことがよくあります。

お天気が良ければ、湖水に写った周りの丘陵や、その間に息づく小さな村を見ながら気持ちの良いウォーキングが楽しめます。

また、平らで簡単に歩くことができるルートを好まれる方の場合は、バターミア湖周辺を歩きます。

一周するも良し、疲れたら引き返すも良し。ご自身の体調にあったルートを選ぶことが大切です。

写真:詩人ウィリアム・ワーズワースが住んだ家「ライダル・マウント」から、グラスミア湖とライダル・ウォ―ター湖沿いに歩くルート。


写真:平らな小道を歩く、バターミア湖。


さて、『ピーター・ラビット』の作者であるビアトリクス・ポターが、物語のイラストとして描いた農場「ヒル・トップ(Hill Top)」。今日は、そのヒル・トップに皆さんをご案内しましょう。

現在これほどまでに人々から愛されている湖水地方の自然は、実は『ピーター・ラビット』の存在なしにはあり得なかったかもしれないということをご存知でしょうか?

まずは作者であるビアトリクス・ポターのことを簡単にご紹介しましょう。

彼女は1866年に、法廷弁護士の父のもと、上位中産階級の家に生まれます。

母はヴィクトリア時代の母親の典型ともいえる人で、ビアトリクスがこの階級に相応しい女性に育つよう厳しく教育します。

そのためビアトリクスは学校にも行かず、家庭教師アニー・ムアに勉強を教えられますが、これが後に『ピーター・ラビット』の誕生につながります。


写真:(左)8歳のビアトリクス・ポター。(右)10歳のビアトリクス・ポターと母ヘレン。


毎年夏になると一家はロンドンを離れ、長期間の休暇でスコットランドを訪れていました。

遊ぶ友達もいない孤独な少女ビアトリクスにとって、休暇で出会う自然や動物が友達でした。

1882年、ビアトリクスは16歳の時に初めて湖水地方で過ごしました。

ビアトリクスは、ここがすっかり気に入りました。またそこで、彼女の人生に大きな影響を与えたハードウィック・ローンズリー司祭との運命の出会いがあったのです。

ローンズリー牧師(後に司祭)こそが、ナショナルトラストの前身となる湖水地方保護協会を立ち上げ、後にナショナルトラストの設立者の一人になった人物です。

また彼は、ビアトリクスの絵の才能にいち早く気がつき、彼女を励まします。


ビアトリクスは、特に植物や動物の絵に興味を持っていました。キノコに関しては細かく観察し、300点にも及ぶ絵を描いています。


写真:キノコの研究に熱心だったビアトリクスは、論文を書いて学会に送ったこともあった。(Mycological illustration courtesy of the Armitt Trust)


家庭教師のアニー・ムアが結婚のためにビアトリクスの家を去った後も、二人の交流は続きました。1893年、アニーの長男で当時5歳のノエルが病気になった時のことです。ビアトリクスはノエルに手紙を送ります。その手紙の書き出しはこういうものでした。

「ノエル君、私はあなたに何を書いていいかわからないので、4匹の小さなウサギのお話をしようと思います。そのウサギの名前は『フロプシー』に『モプシー』に、『コトンテイル』、そして『ピーター』と言いました。」


ビアトリクスは、後にこの時に送った手紙を借りてストーリーを考えました。これが『ピーター・ラビット』の誕生です。

最初は自費出版をしますが、これが瞬く間に売れ、出版会社のフレデリック・ウォーン社が出版を申し出ます。

ここからはとんとん拍子に本が売れ、『ピーター・ラビット』の他に「アヒルのジマイマ」や「ハリネズミのティギーおばさん」などのキャラクターが生まれ、「小さな本」シリーズとして23冊が出版されました。


写真:ビアトリクスが、家庭教師アニーの息子ノエルに書き送った手紙が『ピーター・ラビット』の誕生のきっかけとなった。


こうして印税が入り自活できるようになりますが、これほどまでに彼女が愛する湖水地方の景観を、これからもずっと残したいという思いは日に日に強くなっていきます。

「自然を保存するには、土地を購入するのが一番手っ取り早い」と考えていたローンズリー司祭の影響で、ビアトリクスは印税の収入で土地を買い始めます。いずれはナショナルトラストに寄付をする、という目的でした。


ビアトリクスは40歳頃まで両親と一緒にロンドンに住んでいましたが、1905年にヒル・トップを購入してからは次第に湖水地方で暮らすことが多くなりました。彼女は、単に湖水地方に別荘を持ったわけではありません。そこのコミュニティの一員となり、晩年は本の出版よりも農夫としての暮らしが中心となっていきます。

当時少なくなってきていたハードウィック羊の保存にも関わります。ハードウィック羊の羊毛は防水性に富み、湖水地方の気候に合った羊種でしたが、より飼いやすく経済的な他の羊種がこれにとって代わるようになっていたのです。

ビアトリクスのおかげで、現在湖水地方には多くのハードウィック羊が見られます。生まれた時は真っ黒で、次第に色が薄くなりグレーになるという、なんとも可愛らしい羊です。


写真:ハードウィック羊の母子。


1913年、47歳の時にビアトリクスは土地を管理する法律家のウィリアム・ヒーリス氏と結婚し、ヒル・トップの向かいにある「カッスル・コテージ」に住みます。

そして1943年にヒーリス夫人として、また農夫としての幸せな生涯を終えます。


彼女の遺言により遺灰は、信頼していた羊飼いのトム・ストーリーによって、ヒル・トップを見下ろす丘に散骨されました。

その場所は彼女の希望通り、秘密にされました。

誰にも知られない場所に遺灰が撒かれたことで、彼女が愛したこの土地全てにその存在が一層強くなったのかもしれません。

こうしてビアトリクスが購入した4,000エーカー(16㎢)の土地と15の農家や無数のコテージなどは、ヒーリス氏の所有になりました。ヒーリス氏亡き後は、ナショナルトラストに寄贈されたのです。


それではヒル・トップの中に入ってみましょう。

最初の部屋は玄関ホールと呼ばれている部屋です。窓の下の座席には『ピーター・ラビット』シリーズの小さな本が、そしてその本にはヒル・トップのイラストが描かれていました。


写真:ヒル・トップが描かれている本が玄関ホールに置かれていました。

©National Trust Images


写真:オーブン付きのストーブのある玄関ホール。『ひげのサムエルのおはなし』に登場する。


写真:子猫のトムが煙突に登ろうとしているシーン。

©National Trust Images


写真:(左)『ひげのサムエルのおはなし』に使われた戸棚。

(右)ネズミのアンナ・マライアがロリー・ポリーのプディングの生地を盗んで住処に走って持って行くところ。『ひげのサムエル』から。©National Trust Images


次回に続く…


次回は、ヒル・トップ館長の「ドクター・アリス・セイジ」さんのインタビュー。次回はその様子をお届けしますのでお楽しみに!





※記事に掲載されたイベント情報や商品は、売り切れ・変更・終了する場合がございます。
※売り切れの節は、ご容赦ください。
※表示価格は、消費税を含んだ税込価格です。